2003年5月アーカイブ
珈琲屋さんには「広告マッチ」がおいてあることが常識だった。いまでも喫茶店の四軒に三軒はそなえている。ところが、この常識は近い将来には通用しなくなるだろう。
その原因は大きく分けて次のふたつの原因が挙げられる。
第一には「百円ライター」の普及がある。いまや珈琲屋さんにもお客さんの“忘れ物”のライターが山を成していて、客がたばこに火を付けることが目的ならマッチよりそのライターを選ぶ時代になった。だから、「広告マッチ」を要求する客の絶対数が大きく減少している。
第二に「禁煙運動」がある。禁煙の珈琲屋さんにマッチがあるはずがない。
にもかかわらず「広告マッチ」を求める客もいる。たとえばぼくのように、そのお店の何らかの情報、住所・電話番号などを知りたい場合は、「広告マッチ」は有用だ。つまり、客はまた次に来るときのヒントを「広告マッチ」を通じて得ることができる。
だから最近では名刺大のものや、はがき大のものや、場合によってはA4版を三つ折りにしたような大きさのカードをそなえる店が増えてきた。ありがたいことにこのカードにはたいていの場合、地図がついている。地図があれば、次回には逆方向からでもそのお店を目指すことができるから、じつに重宝だ。有効な宣伝方法だと思う。
ただし“たばこの火”はつかない。
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いまぼくが読みかけている教科書によると、
「自分のサイトを作ろうとするのなら毎日2時間はネットサーフィンをせよ」
としている。そこで、今日はすべての更新を諦めて一日インターネットを彷徨(さまよ)った。
たとえば、ぼくの「近所の珈琲屋」を見つけてくださったみなさまもここに書かれている情報を“最新の正しい情報”だと信じてしまうはずだ。ところが残念ながらどんな優秀な情報サイトでも最新の情報をご紹介できてはいない。
二年半前に作り始めて、半年で挫折したサイトの情報は一目で古いことに気づくが、いまでも更新してるサイトを見ると、中身が的はずれな陳腐な内容になっていても、それに気づくことはリンク切れや別のサイトの情報と比較した場合にしか発見できないのが現実だ。
ぼくの「近所の珈琲屋」も情報の収集をはじめてから約半年を経過した。すでに陳腐化した情報があるのではないかと、ぼくは恐れる。ぼくもご紹介したお店の近くを通る機会があれば少なくともお店の様子を眺め、時間に余裕があれば珈琲を味わって変化の確認をしているつもりではいる。
しかし、新しいお店を発見するためにはいつもとおなじ道ばかりを走ってはいられない。
その教科書には、
「他のサイトの欠点を発見して前車の轍を踏まぬ努力を惜しむな」
と言う意味のことが書かれている。
ぼくは始めてしまった以上、このサイトを短期間で投げ出したくはない。お店からなにがしかの掲載料を得て集めたような偏った「情報誌」ではなく、客の目を通して得た情報を皆で共有するような「珈琲屋情報サイト」を目指しているのだから、なにかの間違いで足を踏み入れてしまわれた方からの“貴重な情報”を待ち望んでいるのだ。
くどくなったが、今夜、ぼくがみなさまにお願いしたいことはただ一つ、間違いや変化をご存じの方は是非ひこぼしまでお知らせ下さい!
珈琲屋さんに音楽は必要なんだろうか。
ぼくなりの結論を言っておく。ぼくは音楽が好きだ。だから珈琲には音楽が似合うと思う。とくにぼくの場合には、ひとりで街を走り回っていて、運転の疲労を癒すために珈琲屋さんに入るのだから誰かと会話を楽しむためでない。だから音楽はぼくと一緒に珈琲を味わうための話し相手でもある。なかにはテレビのワイドショーや高校野球のほうが似合うお店もあるが、ぼくに選択の権利があるかぎり音楽の流れるお店を選ぶ。
愚見ではテレビを観せるお店は喫茶店であって珈琲屋さんではない。そんな気がする。
ただ、ともかく入ってみないとそれは判らない。
さて、どんなジャンルの音楽がいいかと問われるとこれは多いに困る。
クラシックが似合うお店もあるしジャズがふさわしいお店もある。外観や内装にもそのお店の珈琲にたいする考え方が現れるように、流す音楽にもお店の主体性がほしい。たとえばあるお店は一日中ユーミンを流している。あるお店は一日中オルゴールをならしている。グレンミラーもいいし、宇多田ヒカルも悪くない。
あまり三波春夫が似合うような珈琲屋さんにはいまのところ出会わない。が、そんなお店もあってもいいかもしれない。
お客さん同士の会話を妨げるような大音量の音楽が流れるお店もたまにあるが、それはそれで構わない。
そのお店のご店主の趣味や、珈琲と音楽にたいする思い入れが伝わるお店がぼくは好きだ。
ぼくがこのサイトを作り始めてもう半年になる。それなのに未だに「自家焙煎」という言葉の定義が定まらない。自家焙煎とはなんだろう。
街角の珈琲屋さんが焙煎器をそなえ、そのお店に来て珈琲を楽しむお客さんのために、そのお店独自のブレンドを工夫して焙煎することが本来の「自家焙煎」のはずだ。ところが一軒の珈琲屋さんの豆の消費量は限られるし、少量の焙煎では品質も安定しないことが多い。また、そのお店の珈琲の味を家に持ち帰りたいお客さんも当然出てくる。だから自家焙煎の珈琲屋さんは豆の販売もするようになる。
これが拡大解釈され、いつの間にか名の通った焙煎業者以外の小さなロースターが「自家焙煎」と名乗るようになってしまった。規模の大小を問わず、豆の販売を主たる業とするものが「自家焙煎」なのは当然ではないか。「自家焙煎」という以上は、飲み物としてカップに入った珈琲を提供するお店に限定するべきではないかと考えるようになった。
これでは、おおくの自家焙煎珈琲豆屋さんに申し訳ないのでもう少し解釈の幅を広げてみる。すると、そのお店に焙煎器をそなえ、少量の単位で消費者を対象に“小売り”する珈琲豆屋さんも「自家焙煎」を名乗っていいことになる。ところが、そのお店は小売りだけでは経営が安定しないので、知り合いの喫茶店や、そのお店の珈琲を気に入って、少々値段が高いのを承知で仕入れてくれるような喫茶店に珈琲豆を卸すようになる。
そして、その豆を仕入れた珈琲屋さんは「自家焙煎」を名乗るようになる。
お客の方も「自家焙煎」は品質の高い珈琲の代名詞のような錯覚を抱く。すると従来から喫茶店に珈琲豆や喫茶材料を供給していた焙煎業者も負けてはいられない。工場のすぐそばや、離れた場所にアンテナショップを開いて「自家焙煎・工場直営珈琲専門店」を開業する。
だから、看板に「自家焙煎」と書かれていてもどこまで信じていいのかは誰にも分からない。実際に飲んでみて美味しければ「自家焙煎」である必要もない。
また、名古屋では焙煎度の高い珈琲を“美味しい”と評価する傾向がある。だから、一般に「自家焙煎」と名乗る珈琲屋さんには焙煎度の高いお店が多い。なかにはこんなに焼いたのではどの豆も同じように苦いだけだと感じる店さえある。
ぼくは、あえて「自家焙煎」に固執はしていない。その原因は上記の理由により、「自家焙煎」の定義に疑問を懐いているためだ。




