2003年9月アーカイブ
ぼくの知らないむかしの日本では「カフェ」といえば女給がいる洋風の居酒屋だったと聞く。
ちなみに『広辞苑』(第五版)を引用しておく。
カフェ【cafeフランス】
(コーヒーの意)
【1】主としてコーヒーその他の飲料を供する店。日本では幕末の横浜に始まり、東京では1888年(明治21)上野で開店した可否茶館が最初。珈琲店。喫茶店。
【2】明治末~昭和初期頃、女給が接待して主として洋酒類を供した飲食店。カッフェ。カフェー。
とある。
現在のシアトル系といわれるカフェは前者【1】の流れであり、ただしゆっくりとくつろぐ雰囲気を持たない。その代わりに先銭で持ち帰り可能だから、その名の通り米国流なのだろう。
後者【2】は名前だけは絶滅して“死語”となった。ただし日本人は(日本人でなくても)酒は大好きだから、この「カフェ」の実体が消えるはずがない。「カフェ」から「キャバレー」と呼ぶ時代を経て、いまでは庶民は「キャバクラ」とも呼ぶようだ。
もうひとつの俗に「いまどきのカフェ」といわれるカフェは、そのどちらにも属さない新しい流れの言葉だろう。カフェという名前を持つが、食べ物に力を注ぐ店が多い。そしてアルコール類を供することも特徴だ。「カフェバー」という呼び方をするお店もある。いずれにせよ、ぼくの知る限りでは女給に相当するような接待は伴わない。
オープンカフェという言葉もある。こちらはパリなどの「カフェ」の店舗の様式を模したもので、提供される飲み物とは関連なくそう呼ばれているような気がする。よくフランス映画を観ると路上にはみ出したテラスのような場所でワインを呑む姿をみる。あれはフランスだから似合うのであって、日本では景色にそぐわないような気がする。
だってフランス人は小学生の頃からワインを呑むらしい。
一方、ごくふつうの珈琲屋さんでも「カフェ」と名乗る店もたくさんある。じつはぼくはそんなお店を探している。
本日2003年9月17日付の「日本経済新聞・夕刊(名古屋版)」の第一面に作家の常盤新平が「コーヒーと喫茶店」と題するコラムを寄せている。
以下、一部を引用する。
都心に出たときには、方々を歩きまわるから、二軒か三軒で一服する。大学にはいって、はじめてコーヒーを飲んだころ、一杯四、五十円だったが、いまは四百円から六百円で、千円の店もある。私はなるべく古ぼけた店を選ぶ。おじいさんがコーヒーをたてて、おばあさんがそれをはこんできたりすると、また来なくては申しわけないと思う。 わが町には駅前にりっぱな喫茶店があるけれど、私は陸橋のたもとにある店に行く。おばさんが一人でやっている店で、焼魚のランチもあれば、お汁粉もあって、私はここでコーヒーを飲む。おばさんがちゃんとコーヒーをカリタ式でいれてくれるのである。私はミルクも砂糖も加えない。 コーヒーのあとで、彼女は言う。「だんなさん、青汁はどう?」 「いただきます」。すると、氷を入れたコップに青汁をドクドクと注いでくれる。
じつはぼくも昭和区の珈琲屋さんで似たような経験をしている。そのお店のおばさんはぼくに豆乳を飲ませてくれた。メニューのない不思議なお店だった。
たいていの人は歩き疲れたり、運転に疲れたり、のどが渇いたときに珈琲屋さんに入る。だから、客が席に着くと同時に提供される「お水」はありがたいものだ。まず水で喉を潤すことにしよう。飲食店の世界では一般にこういう「お水」のことを「お冷や」と呼ぶ。
自分で水道の蛇口を捻ってコップに注いで飲むのは「水」であり、珈琲屋に限らず客としてお店に入り、店員さんが注いでくださるものを「お冷や」と呼ぶ習わしになっている。日本ではほとんどの場合無料とされている。山小屋などは例外とされているが
。
さて、珈琲屋さんで肝心な珈琲を飲んだあとで、無性にのどが渇いて「お冷や」が欲しくなることがある。
こんなお店の珈琲には何らかの問題があると思って間違いない。豆が古いか、焙煎が悪いか、あるいは抽出に問題があるかのいずれかだ。一般にこういう珈琲のことを「雑味がある」とか「後味が悪い」と表現する。
もしもどこかの珈琲屋さんで珈琲を飲んだあとで何杯も「お冷や」のお代わりを貰った記憶のある人がいたら、そのお店に入ることは今後避けるべきだ。
ただし、ファミリーレストランなどで珈琲一杯で一時間以上も長話をされる場合はこの限りではない。店員さんにたとえ厭な顔をされてもそんなことなど気にせずに、威張って言おう。
「お冷やちょうだい!」
名古屋の珈琲屋さんを巡っていると不思議な現象を見る。なぜかお店の中の目につきやすい場所に立派な整水器をそなえた珈琲屋さんがある。それも不思議なことに自家焙煎のお店ではなく、ある特定のロースターさんの焙煎した珈琲豆を使うお店にとくに多い。
お店によっては最良の豆と水にこだわっていると、わざわざ断り書きをしてある店まである。
逆に自家焙煎の珈琲屋さんには、ドリップポットに温度計を備えて管理しているお店がある。不思議なことに整水器は滅多に見かけない。抽出方法は店ごとに主義主張があり、さまざまだ。一概に秀でた抽出方法というものは決まっていないような気がする。
整理すると美味しい珈琲屋さんに必要な条件は、第一に良質な豆、第二に優れた焙煎、第三に優れた抽出、そして抽出する時のお湯の温度の管理なのではないだろうか。
ぼくの意見では名古屋の上水道は不味いとは思わない。少なくとも珈琲を抽出するときにもきちんと煮沸さえすれば、充分美味しい珈琲が味わえると思っている。
となると立派な整水器が本当に必要なのかという疑問が湧いてくる。確かにないよりはあった方が安心感もあるし、優れた舌を持つ人が比較すれば違いが判るのかもしれない。ただぼくには、なんだか珈琲に付加価値を与えるための一種の“おまじない”のような気がしてならない。




