2005年11月アーカイブ
自分のサイトを確認した限りでは、やはり名古屋の珈琲一杯の値段は350円から400円が「相場」のようだ。
これはそのお店の立地条件とはほとんど関係がない。都心部は地価が高いから固定経費がかさむだろうが、その分お客さんの数も多い。逆に周辺地域で自宅で経営されているお店では経営は楽かもしれないが、その分競合するお店も増える。
同じ価格で同じ珈琲を提供していては他のお店との競争に勝ち残れない。そこで、他店との「差別化」を図ることになるが、名古屋ではいちばん容易な方法は「モーニングサービス」の充実だろうか。あるいは午後にも「おまけ」をつけるという作戦もある。350円から400円の幅のなかでの競争にはどうしても限界がある。
これらの方法では客単価は増加しないので、日々のお客の数は売り上げに直結することになる。
客単価を増加させようとした場合には、ランチなどの食べ物やお菓子(スイーツ)などのメニューを充実させて、あるいはアルコール類まで扱うようになる。とくにこの傾向は目指す顧客の主体を若者に求める「カフェ」と呼ばれるお店で顕著に見受けられる。
さらに、それでも満足な結果が得られなければ「カラオケ喫茶」とか「まんが喫茶」なとに特化されてゆくのだろう。
喫茶店は食べ物ではなく「珈琲の味」で競うことが本来の姿だと、ぼくは思う。
なるべく毎週発行しようと努力しているこの「週刊・近所の珈琲屋」も、発行人のあまりの怠惰が原因で、ついに休刊の憂き目を見た。
というのはウソで、発行人であるひこぼしはあまりの肩の痛みに耐えかねて、ついに長期湯治の旅に出る決心をした。出発は11月19日(土)の早朝、目的地は甲斐路の「御坂峠」を目指している模様。本人曰く、
「真っ白な冠を頂く富士山を眺めて、酒を浴びて、温泉に浸かり、按摩さんに肩をもんでもらって、(珈琲のことなんかすっかり忘れて)五十余年の日常生活のウサを晴らし、来週からは気分も新たにする」
との弁だが、ことの真相はかなり疑わしい。本人が言うのだから間違いない。
ともかく今週は「休刊」で、第98号は11月26日を予定している。
悪しからず
しばらくのあいだ珈琲豆の話題が続いたので、今週は喫茶店での話題に戻そう。
ぼくが行く名古屋の珈琲屋さんでは珈琲一杯の価格はほとんどのお店で350円を下限としている。なかには例外もあるが、それらのお店ではほとんどの場合には珈琲豆の販売を兼ねて喫茶店営業をされている。
また、尾張西部地域には300~330円の価格設定の喫茶店もずいぶんあるらしいけれど、不幸にしてぼくはまだ訪問できていない。
ずいぶんと昔(ぼくがほんのこどもだった頃)には、銭湯と蕎麦と珈琲の値段が同じだったと聞くから、珈琲屋さんでの値段は蕎麦屋さんよりもがんばってくれている気がしないでもない。
名古屋には「喫茶店文化」なるものがあって、喫茶店(珈琲屋さん)の数が多い。その分だけお店同士には熾烈な競争があるわけだが、価格ではなく「おまけ」などの「付加価値」で競う傾向が顕著で、とくに全国的にも名古屋の喫茶店での「モーニング」は有名だ。
しばらく、名古屋の喫茶店について考えてみたいと思う。
とはいえ、最近では350円の珈琲にはなかなか出会えないようになった。
テレビの番組の影響力は絶大だ。先日の「発掘・あるある大辞典2」のあと、珈琲豆屋さんにはちょっとした異変があったと聞く。
ハワイコナとマンデリンの売れ行きが増加したという話しを聞いた。また浅煎りの珈琲豆の売れ行きも増したらしい。
愚見では珈琲はお茶と同様で、そのひとときを楽しむためのもので、勉強や仕事の疲れをほぐす効果を持つけれど、『薬効』を期待することには賛成できない。
現代人には、何かにつけて健康を銭で買おうとする傾向が見受けられるが、珈琲にしろお茶にしろ、もちろん酒やたばこを含めて、いわば嗜好品で世の中に存在しなくてもよい性格のものだろう。
そうしたもので健康を維持しようという「精神」は正しくない、と思う。
世に「サプリメント」なるものが蔓延っているけれど、そんなものに銭を使うくらいなら美味しい食べ物で腹を満たして、ついでに美味しい珈琲かお茶でも飲んで「健全な身体と心」を守りたい。




